Masuk『大きなリビング』からテラスへと出られる窓は、開け放たれていた。半分だけ屋根がある広いテラスには、朝食の支度が整っている。晧司さんは、柔らかな椅子に私をそっと下ろした。彼は、向かい側ではなく私の右隣。
七月上旬の光は強いけれど、適度に日陰ができる造りなのであまり気にならない。水面を渡るそよ風は涼気を含んでいる。 「気持ちいい……」 ほぅ、と息をついて、コーヒーのポットに手を伸ばした。晧司さんのカップを引き寄せ、ゆっくり注ぐ。彼は何か言いかけたけれど、黙って待ってくれた。ん……重いけど、大丈夫。ポットを置くと「ありがとう」と温かな声。彼はお返しにと、私にカフェオレを作ってくれた。飲み物がそろったところで、食事が始まった。 「いただきます」 「いただきます。……どうかな?」 「おいしいです、とっても!」 フレッシュな野菜とハムのサンドイッチ。チキンサラダに、私が好きなゆで加減の卵に、コーンスープ。どれも素材の味が生きている。 「握力も食欲も、もうほとんど元通りだ。よく頑張ったね」 「晧司さんのおかげです。私が目を覚ましてから三か月、毎日リハビリに付き添ってくださって。その前も、退院してからも、こんなに……本当にありがとうございます」 「私は、自分がしたいからしているだけだよ」 彼は、私が眠り続けていた三か月の間も、親族としてめんどうを見てくれた。寝たきりで低下していた筋力が順調に回復してきたのも、彼が毎日、献身的に世話をしてくれたからだと、お医者様から聞いている。腕も足も、弱らないようにと少しずつ動かしてくれていた。毎日、毎日……。事故で意識を失い、一向に目を開けず、一生そのままかもしれないとさえ言われた私のために。 どこからともなく意識が浮上し、自分が何者なのかもわからず、混乱して縋るように目を開けた時、彼の手が私の指先を包んでいた。驚いて目を見開いた彼が「リン……? 私だ。わかるか? リン!」と呼んだ。それで、私は自分の名を知った。あの瞬間から始まった三か月と半月が、私の記憶のすべて。 意識を取り戻した私は、彼の瞳に浮かんだ光を打ち砕いてしまった。声は出なかったけれど、唇が「誰?」と動いた。「……自分の名は? 姓は」と震える声で聞かれ、答えられなかった。リンは鈴と書くことも、姓が天霧であることも、父方の従兄妹同士だということも、彼が教えてくれた。やっと言葉を絞り出していた、憔悴しきった様子が忘れられない。 今はこうして、湖畔で微笑み合えるようになったけれど……彼のことだけでも、一日も早く思い出したい。 その思いをかみしめていると、「焦らなくていい」と肩を抱かれた。 「君がここにいる。私にはそれが何よりも大切なことなんだ」 「晧司さん……」 寄り添って眺める景色は、この半月ですっかり目に馴染んだもの。緑が濃く、空が近い。山に抱かれたこの地で、綺麗な空気を吸って療養していれば、いつの日か記憶は戻るだろうか。 その時、あなたは隣にいてくれますか?彼は笑みを浮かべた。そのまま少しの間、私をうっとりと見つめていた。私は、彼の髭剃り前の顎を、いたずらっ子のように撫でていた。満たされる。ただ、これだけで。「……そろそろ、服を着ましょうね」 名残惜しい気持ちと、甘やかしたい気持ち。この人に、限りなく優しくしたいと願うあたたかな想い。記憶をなくす前の私が抱きしめていた呼吸は、この人といる時の自然な感覚はこれなんだと、心の炎が歓喜している。 もっとこうしていたいと目で甘える彼をあやす仕草をしながら、立ち上がった。着替えは壁の吊戸棚に入っている。着替えをどこにしまっているのかと、素朴な疑問として聞いた時に教えてくれた。私には少し高いけれど、絶対に届かない高さでもない。背伸びをして、扉の取っ手に指を引っかけた。「んっ」 足もとが定まらない。「リンッ」 一瞬ののち、立ち上がった彼にきつく抱きしめられていた。拭いたばかりの胸元に、うっすらと汗が滲んでいる。鼓動が速い。「晧司さん……」「心臓が止まるかと思った……」 大げさね、と頭の中の私は笑っている。けれど、声に出して笑う気にはなれない。私が覚えていない何かの出来事が、彼にこれほどの警戒心を抱かせてしまっている。それは一体、何だったんだろう? 同時に、私は彼の行動からひとつの情報を得ていた。 この吊戸棚の高さに、私は慣れていない。以前からあったものではないんだ。 記憶の欠片は、まだ、かき集めれば片手の手のひらに収まってしまうくらい少ない。そのわずかな情報量の中でさえ、晧司さんは私に甘えて、世話を焼かせてくれていた。私が彼の着替えを用意することもあっただろう。それなのに、私の体はこの棚の高さに対応できなかった。 私の好みの本が収められた本棚。 彼が使うには低い机。 もとは書斎だったところにベッドを入れたような違和感。 それに、この吊戸棚。腕の中からちらりと見上げると、部屋の中のほかのものに比べて真新しい。つ
私の……? 晧司さん、その先は……? 彼は言葉を切ったまま、私の肩に頭をうずめた。何かを、必死で堪えている。言ってはならないと自分を戒めるように、首を横に振っている。「晧司さん。大丈夫よ、大丈夫……ね? 大丈夫だから」 ああ、私は一体どんな経緯でこの人をこんなに苦しめてしまっているのか……早く、知りたい。 心の底に炎がともる。 自分がどうなっていくのかが怖いなんて、後回しでいい。私の記憶が戻るのを、私を傷つけないようにしながら辛抱強く待っている人たちがいる。晧司さん、七華さん、春日さん……夕李も、その一人かもしれない。 ――しっかりしなさい、天霧鈴。あなたは弱虫じゃない。勇気を出すのよ。 頭の中に、また声が響いた。私を励まし、背中を押す。それはもう一人の人格というよりも、私の理性の先導者。 違和感はない。以前の私もこうして、自分との対話をしながら道を見極めてきたに違いない。 嵐の一夜を経て、自分というものが像を結び始める。 ぎゅっと彼を抱きしめ、背中を優しく叩いた。とんとん、とんとん……幼子をあやすように。「リンッ……」 晧司さんが、記憶の奥の私を呼ぶ。頭の中の私は早く応えたがっているのに、どうしても開かない扉がある。鍵が、まだ足りないのだ。ひとつかもしれないし、いくつもの鍵を見つけ出さなければならないのかもしれない。 待っていて。 お願い。 もう少し、待っていてください。私のこと。 彼の髪に唇を寄せた。 記憶がなくても、意志を持って歩むことはできる。 自分自身の選択を常に見つめていよう。 顔を上げて目を潤ませている彼の、少し伸びた髭を撫でた。
私は、話しながら彼の体を拭き始めた。「私、まだわからないことがたくさんあるけど……今、目の前にある大切なものを、しっかりつかんでいようと思います」「うん」「誰とどんな出会いをして、自分の人生をどんな風に組み立ててきたのか……まだ、思い出せない。もどかしい」「うん」「それでも……私ね、揺らがない大地に支えられているのが、はっきりとわかるんです」 タオルで、私がつけた痕をなぞっていく。彼が吐息を漏らし、目が合った。お互いの瞳の奥まで、見通せる感覚。宇宙の果てしない謎のように、二人の間には遠い記憶がいまだ目を覚ましきれず横たわっている。けれど、夜空は澄んでいる。澄み切ってる。 見つめ合い、ゆっくりと手を動かす。彼の首筋も、耳も、お腹も……そこに触れた過去を覚えていなくても、私は『また』知っていく。 広い背も軽く拭いて、肩に小さなキスを落としてから、タオルを机に置いた。「リン……」 どちらからともなく、そっと抱きしめる。ベッドの上で二人、このまま時が止まってしまってもいいとさえ思う。それほどまでに大切だからこそ、いつまでも立ち止まっていたくない、とも思う。「晧司さん。私、大丈夫よ。大丈夫……」 揺れ動きながらも、一歩ずつどこかへ向かっている。謎だらけの星空の下、不思議なほどしっかりと大地を踏みしめている。 彼の抱擁が強くなった。鼓動に包まれる。「リン。私の……」
隣に腰かけた私を、彼は優しく抱き寄せた。体温が伝わってくる。ほのかな汗の香り。私の情緒は今、多分本当にグラグラと揺れていて、この汗を拭きとったら昨夜の痕跡が消えてしまう……と寂しがる気持ちがある。「ふふ」 笑ったのは、自分に対して。あまりにも子供じみて、身勝手な感傷だから。このままでは彼の体が冷えて、回復しかけた体をまた悪くしてしまう。それに、私が残した痕は濡れタオルで拭いたところで、消えるものではない。 ――こんなところにまで。まったく君は……。 ――お互い様でしょ。ふふふ……。ほら、これを塗って、あとは……。 頭の中の声は、今度は回想。情事の翌朝だろうか。止められなかった欲の痕。ちょっぴり困惑しながら、彼は決して咎めてはいない。 思い出したのは、声だけではなかった。あの時私は、打撲などに効く痛み止めと、ファンデーションを塗ってあげたことを覚えている。休日ならかまわないけど、これから二人とも仕事に向かうのだからさすがにね、と笑い合って。 私の体の回復は、記憶の回復に直結している。抗うすべも、猶予もなく、私を先へと進ませる。怖いけど、すべてを思い出す瞬間は少しずつ近付いている。それは何か月かあとかもしれないし、明日かもしれない。 避けようのない時が私を待っているのなら、私は今、どうしたらいい? 精神は絶え間なく揺れている。私の記憶は穴ぼこだらけ。それどころか、針のような小さな穴から、記憶の一部だけが時々降ってくるだけの状態。それはまるで、とらえどころのない星の光。肉眼で夜空を見上げてみても、それぞれの星がどんな姿をしているか、どんな景色が地表に広がっているのか、知ることはできない。だからこそ。目に届く光が、言葉に尽くせないほど美しいということを、胸に抱きしめていたい。 晧司さんの目に微笑みかけると、優しく髪を撫でてくれた。「晧司さん」「ん?」
お湯に浸してよく絞ったタオルを片手に、昨夜熱烈に私を抱いた人の寝室へと、足を踏み入れる。その瞬間、フッと頭に浮かんだ。 ――この部屋に入るのに、わざわざノックするなんて何だかおかしい。だってここはもともと……。 首を傾げて立ち止まった。頭の中の声は、不審や疑念ではなく、楽しそう。小さないたずらをおもしろがっているかのようだ。 真実を知るのは、待っていたはずなのに怖い。 晧司さんとの確かな関係を信じたい。けれど記憶が戻ったら、この静かな生活は終わりを告げる。そしたら、私はどこへ行くんだろう。物語によくあるように、今度は、記憶を失っていた間のことを忘れてしまうんだろうか。昨夜この人と求め合い、溶け合ったことも、記憶の外へと追いやられてしまうのかもしれない。夕李と子供のようにはしゃいだ散歩の思い出も、彼に残酷なことをしてしまった昨日のことも、私は都合よく忘れていくのだろうか。「リン、おいで」 穏やかな声が呼ぶ。晧司さんは起き上がり、ベッドに腰かけてこちらを向いていた。着替えの途中。私が立ち尽くしている間に、上半身の肌を露わにしていた。目に飛び込んでくるたくましい体躯。ところどころ鮮やかな赤が散っているのは、私が無我夢中のうちにつけた痕。私の独占欲。彼は、それを許した。 すーっと、頭の中が軽くなっていく。この部屋を出ていた間は自信を失いかけていたのに、今はまた、晧司さんとの揺るぎない絆を疑わない。はっきりしているのは、私がとても不安定な状態にあるということだ。 素直に、ベッドに歩み寄った。
「すず、これは君に」 差し出されたのは、カフェの紙袋。パンとコーヒーのいい香りがする。「私に?」「今日、少しでも何か食べたのかい?」「……あっ」 すっかり忘れていた。起床したのがお昼過ぎとはいえ……昨夜のことを思い返したり、晧司さんの体調に驚いたり、指輪のことを考えたりしながら、空腹を感じることなく数時間が過ぎていた。 夕李は苦笑して、私の手からタオルを取った。「天霧さんに、会えるかな?」「ええ……あなたが一段落したら来てほしいって。あ、でもこれはっ」 私をリビングの椅子にかけさせ、食事をとらせようと優しい仕草で促した夕李は、跳ねるようにその動きから逃げた私に、少しだけ驚いた顔をした。その拍子に、タオルは私の手の中に戻っていた。素早い動作ができたことに、自分でも驚いた。 私、急速に元気になっている……? 記憶のかけらが集まり始めたことと、関係があるの?「すず……」「……あの、すぐ、来るから……」 どう見ても不審な私の行動と言葉。彼はそれを咎めようとはせず、「わかった。僕は荷物の整理を済ませてしまうよ」と微笑んだ。「ごめんなさい。あの……お食事、買ってきてくれてありがとう」「どういたしまして。ああ、そうだ。その間に、何か一品作っておくよ。だから急がなくて大丈夫だ」「ありがとう……」 もう一度お礼を言い、悪いことを見つかって逃げ出す子供のような気持ちで寝室へと向かった。 晧司さんは、汗をかいた体を熱いタオルで拭いてさっぱりしたいはず。夕李が寝室に行けば、彼は晧司さんの裸を、上半身だけだろうけど見ることになる。そこにもし、私が情事の痕を残してしまっていたら……! ドアの前で深呼吸をして、ノックをし、「晧司さん。入りますね」と声をかけてから中へ入った。
「リン、食事の支度ができたよ」 低く、穏やかな声が私を呼ぶ。「はい、今行きます」「こちらへ運ぼうか?」 戸口から姿を現したのは、従兄の天霧晧司さん。今日も優しい笑顔。「いえ、大丈夫です。今朝はとても気分がいいので」 本心からそう言ったのに、彼は心配そう。部屋の中へ静かに入ってきて、身支度を済ませた私を眩しげに見た。「今日は本当に調子がいいんです。洗顔も着替えも、途中で休むことなく済ませることができたんですよ」 クローゼットから、服を選ぶ余裕もあった。薄い緑色のサマードレス。「それはよかった。しかし、一度に動き過ぎてはいけないよ」「晧司さん、本当に過保護ですね。もうじき、あ
彼は小さく笑って、脇に置いてあった段ボール箱を持ち上げた。「僕に強がっても駄目だよ。詳しくは聞かないから、無理に元気な振りもしないこと。いいね?」 太陽の中に見え隠れする影。謎めいた明るさ。閉じ込められた山の中で、夏中、私を楽しませてくれた。その時間は、彼を傷つけてしまったことで終わりを告げたのではなく、なおもこんなに優しく続いている。「ありがとう」 彼がくれた言葉に、しっかりと目を見て応えた。 切れていはいない。私たちの間にある糸は、何色なのかはわからないけど確かにつながっている。ならば私は、逃げずにこの縁と向き合おう。それもまた、記憶の扉に通じているのかもしれないから。「重
晧司さんは、間取りを説明しながら私を運んだ。建物は横に長くて、玄関から伸びる廊下の右側には寝室が二つ。晧司さんのものと、奥は私のために用意させたという。廊下の左側には、晧司さんの書斎と、ゲストルームとしても使える和室。これらの四つの部屋の入口は、途中で左右に分かれて伸びる廊下に面している。 左右のどちらにも折れずまっすぐに進むと、右手にお風呂やトイレ、左手にキッチンを見ながら、リビングに出る。キッチンの向こうには、和室と向かい合う位置に洋室のゲストルームがある。ダイニングとほぼつながった形のリビングからは、光り輝く湖を一望することができる。 「素敵……」 感嘆のため息を漏ら
夢を見た。 暗くて寒い。誰かが私の肩を強くつかんだ。恐怖が背筋を駆け抜ける。駄目。叫んではいけない。嫌悪と絶望と、覚悟。唇を強く噛んだ時、大きな音と怒号が響いて――凄まじい咆哮。意識が白く染まっていく……。「リン」 「……あ」 温かい声が私をくるむ。夏の布団の上に突っ伏して、その一部をぎゅっと握り締めて眠っていた。肩にふわりと掛けられたのは、紫色のブランケット。 「晧司さん……」 「指を噛んではいけないな。傷になる」 言われて気付いた。私は、おそらくは夢の中の恐怖に堪えるため、自分の人差し指を強く噛ん







